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モチベーションを上げる?

昨今「モチベーション」という言葉は一般化した感があります。「モチベ」なんて短縮して言うことがあるくらいに。
リクルート時代の先輩、小笹さんが立ち上げたリンクアンドモチベーション社の功績も非常に大きいのではないでしょうか?
ただ、このモチベーションという言葉、使う人によってかなり大きなニュアンスの差があるようにも感じます。

中間管理職の悩みの調査などでは、「部下のモチベーションを上げる方法がわからない」などもよく出てきます。
クライアントとお話ししていても「もっとモチベーションが上げる伝え方を学んでほしい」なんて言葉を聞いたりもします。

そんな時、いつも「ん?」と微妙なモヤモヤを感じてしまいます。
「モチベーションって、他人が上げるもんなのか?」「伝え方で上がるのか?」・・・なんて。

2019年ラグビーワールドカップの1シーンから、改めて「モチベーション」を考える機会があったので雑感を記してみます。

予選リーグ、対アイルランドの大一番の直前にヘッドコーチのジェイミー・ジョセフが選手を前にして伝えました。5行詩を書いてきたと。

  

誰も勝つとは思っていない。
  誰も接戦になるとも思っていない。
  誰も僕らがどれだけ
  犠牲にしてきたのかわからない。
  信じているのは僕たちだけ。

勝利をあげた試合の後のインタビューで選手がこれを口にしたことを思えば、この言葉がどれだけ彼らのモチベーションを上げたか想像できます。

ただ、これを持って
「やはり、マネージャーはメンバーを奮い立たせる言葉を持たなくては」
「こんなにうまく言えないよね」
といった「伝え方や言葉」だけに目を向けるのは残念だし、ましてやこの「やり方」だけをマネてもうまく行かないだろうことは容易に想像されます。
では、これが「効果的」だったことの要因はどこにあるのでしょうか?

この言葉、ヘッドコーチの態度は選手たちの何を刺激したのでしょうか?

ポイントは二つあると思います。
一つは、選手たちが経てきた「体験」。
もう一つは、選手たちとヘッドコーチの「関係性」。

この詩の言葉の一番のインパクトあるワードは「犠牲」。
この言葉を聞いた瞬間に、それぞれの選手の頭の中に、多くの「犠牲にしてきたこと・時間」が走馬灯のように廻ったことでしょう。そして、言葉にできないような感情・高ぶりが湧いたことでしょう。
それは、それだけの「体験」をしてきたからです。
同時に、ヘッドコーチはそれだけの「体験」を要求し、強いてきたはず。
時には反発やあきらめ・へこたれといった葛藤もあったはず。
選手たちがその体験を受け容れ、乗り越えてきたのは彼らに共通して、
「成し遂げたい目的と目標」がありありと描かれていたからだと思います。
この目的・目標を「ありありと」描かせたのは、エディー・ジョーンズ前代表ヘッドコーチによる4年前のワールドカップでの3勝体験であり、南アフリカ戦勝利での世界の湧き方体験であり、初のアジア開催・日本開催であることによる様々な重圧体験であると思います。

それらの体験から生まれる「歓喜のイメージ」や「やればできるイメージ」や「不安・恐怖のイメージ」といった、多くの感情的エネルギーをヘッドコーチは様々な機会を創造することで増幅してきたはずです。

そして、これらの「体験」の中で選手たちが「感じてきたこと」を、ヘッドコーチが同じように感じ取っていたからこそ、選手個人に寄り添ったこのパーソナルなワードの選択になったのだと思います。
さらに、このパーソナルなワードを選択できたことから、ヘッドコーチが彼らの葛藤や感情に向き合い、心の声を聴き励まし、コーチ陣を信頼し選手を信頼し、してきたことが伺えます。そこには「互いに対する信頼・敬意」といった「関係性」が生まれていたことが感じられます。

もし仮にヘッドコーチが選手の「感じていること」とは離れて、勝手に「国民のために」とか「日本開催の成功のために」といった大上段なワードを使っていたら、ここまで選手のエネルギーを揺さぶることはなかったはずです。

もし仮に、ヘッドコーチが、選手個々の葛藤に向き合わず、心の声を聴かず、信頼せず、勝つための要望だけを指示・指導し、大上段な言葉だけで選手のモチベーションをあおろうとしているような人だったならば、そこに「信頼や敬意」といった関係性は生まれていたでしょうか?そして、そんな人から「素晴らしい言葉」を聞いたところで、選手の感情が高ぶることはなかったはずです。
人はいつだって、「正しいことを聞くこと」より「誰から聞くか?」によって動かされるものではないでしょうか?

さて翻って、企業のマネジメントの現場ではどうでしょうか?

メンバーの「体験」「感情」を視野にいれず、「大上段な」ワードで「モチベーションを上げよう」としていませんか?
「大義」を掲げることは重要です。
しかし同時に、その大義に繋がる「パーソナルな」体験を設計すること、そこに生まれる葛藤・感情と向き合うこと無くして、どんな「言葉」を「伝えて」も一人一人の心のエネルギーは動かないのでは無いでしょうか?

「モチベーションが上がる」のは、そういった手間のかかる、ある種「目的に向かって、信頼・敬意のもとに、互いに何かの犠牲を払う」様々な取り組みの繋がり中で生まれるものであって、決して単純に「伝え方」だけで「上げよう」とするものではないと思います。